今朝、仕事先に行く車の中でラジオを聴いていて
ゲストの誰だかが、
「子供を生んで子育てして、とやっているところだがつくづく学校教育や社会というのは型にはまった自己犠牲を押し付けてくる」
という話をしていました。
具体例として、少し前の時代だが、子供を愛しているなら紙おむつより布おむつだとか。
スマホやゲームは一切ダメとか。
子供を愛しているのなら不便さを敢えて耐えることこそが愛をもった姿だ、のようなヘンーな常識がまかり通っていると。
聴いていて、確かにそういうところあるな、と思ったのですが
その人はまた、例として
「学校の国語の授業でも、ごんぎつねだの、スーホの白い馬だの、自己犠牲が正しく美しいことみたいな教材ばかり扱う」
と言っていて
その時は「あの2つの話は『自己犠牲は尊い』というテーマの話ではないと思う」
と思いました。
では何なのかと考えてみると
愛というものは、必ずしも報われ美しく完成するものとは限らないけれども、それでも生き物は愛を持たずにいられない(し、どんな圧力にも耐えて繋がり合い結びつき合うことが確かにある)、
という話ではないのかなと思います。上の行のカッコの中はスーホの白い馬の方。ごんぎつねはそこまで辿り着けなかった。
別にスーホの馬もごんも、自らを犠牲にして…とは思っていなかったろうし、そんな彼らの姿をことさら「美しく」描いた作品ではない。最後は折れてくじけ命が消えてしまうけれども、それでも彼らが選び取った道なのだ、くらいの。
しかし、ごんを撃った人、もう二度と銃は撃てないだろうなあと思った。
自己犠牲、というと
「三コ」という話と、「八郎」という話が頭に浮かびます。
どちらも、村の皆を守るために、巨大な男が
前の方は、もえる山に覆いかぶさって焼け死に、後ろの方は海へ潜って死ぬ。
これぞ自己犠牲の最たるもの、と姉は「嫌いだ」と言っていたのですが
まあ確かに自己犠牲なんですが、それに異論はないのですが
八郎が言うことばが
「なぜ、今まで自分が大きくなりたいと思っていたのかがわかった、
自分はこうして大きく大きくなって、皆のためになりたかったのだ」
といった内容で、それを読んだ時、ちょっとその…自己犠牲とも違う気がしたのです。
「この時のためにこそ自分はこういう姿で生まれてきたのだ」
それを嬉しく思う、みたいな…うまく言えませんが。
でもさ、アヴさんもイギーもエッシーも自己犠牲だって言われたら「違う」って言うと思うのよ!そうじゃない?ねえ?
突然最後になんか名前が追加で(笑)スーホの馬とごんと三コと八郎にじろじろ見られているアヴさんイギーエッシーであった。皆で美味しいものでも食べて。