GRJ日記

サイトの日記代わりです。やや古いマンガやや古いアニメやや古い特撮(略)大好き。

難破船

クオレという作品があります。母をたずねて三千里などが入っているイタリアの児童文学…でよいのかしら。パヤオが携わったカルピス名作劇場の他にも「クオレ~クオレ~」「明日はどんな日明日はどんな日」と書くと馬鹿みたいですが、前のがオープニングで後のがエンディング。のアニメもありました。あれもカルピスか。カルピスはクオレが大好きだな。
母をたずねての筋書きについて、寺山修司が難癖をつけているのを読んだことがあります。遠く離れた町に母親がひとりで出稼ぎに行く。便りが来なくなる。探しに行くのがまだ10やそこらの子供ひとり。父や兄は何をしてるのか?変過ぎるだろう。寺山修司は「幼いマルコには言えない事情があったのだろう。両親の仲が冷えていて母が新しい男のところへいくとかそういった」みたいなことを書いていて、まあその想像はともかく、確かに不自然なものを感じますね。とにかく『幼い子供が一人で母親目指して旅をする』状況設定だけぶちあげて、「なぜそうなったのか」の部分は考えなかった。みたいな感じです。でもパヤオアニメではちゃんとそれなりに無理のない事情が考えてありました。
それにもともとの原作は1年間のアニメに出来るほどの長さはないので、ほとんどまるっとオリジナルの部分もあるらしい。全然不自然さがなかったわ。こっそり貨物列車に乗ったマルコから目を逸らすために囮になってくれた男の子の部分ほんと泣いたけど、あれももしかしたらオリジナルかもな。ちなみに聖闘士星矢の、北欧神話っぽい部分は全部アニメスタッフのオリジナルですけど、聖闘士星矢のお約束(時間内にナニナニをしないと、沙織さんが死んでしまう!)をちゃんと踏襲したので、違和感なかったわ。話がそれましたが
で、
同じクオレの中に「難破船」という話があります。これは子供の頃に読んだのですが、
親が死んで親戚の家に行く少年と、故郷に帰る少女が、同じ船に乗り合わせる。ふたりは話をするうちに打ち解ける。しかし船は嵐に遭って難破して、沈んでいく。もうだめだ、という時に救命ボートから「あと一人、子供なら乗れる」と声がかかる。その瞬間、ふたりは各々自分が助かりたいと思うけれども、少年が「この子を乗せて!この子の方が軽い!」と叫んで(実際は、少年の方が小柄なのだけれども)「僕は家族がいない、独りぼっちだ。でも君は違う。君は助からなければいけない」と言って少女を海へ押しやる。
沈んでいく船べりで空を見上げる少年と、救助ボートに乗れた少女は泣きながら互いに「さようなら」と叫ぶ。少女がうつむき、次に顔を上げた時には船はいなくなっていた。
という筋書きです。
私が読んだ話では、ふたりとも相手を押しのけて「僕を乗せて」「私を乗せて」と我先に叫ぶんだけど、救助ボートから「軽い方だ!」と言われ、少女が真っ青になってうつむく。その少女の胸に飛んだ血痕を見て、自分がケガした時に少女が手当してくれたことを思い出し、雄々しい気持ちが胸に沸き上がった、というシーンがあったのですが、あれは訳者がさしはさんだのかしら。実際にあるのかしら。わかりませんが、もし誰かが挿入したのだとしても、この物語の根底に流れているものに添っていると思いました。
最後に少女が、泣きながら「さようなら」と叫ぶんですが、子供の頃は「ありがとうとか、ごめんなさいではないのか?」と思った。なにせ、自分の命と引き換えに助けてくれるんだからね。どれだけ言っても足りないくらいだ。
でも今は「さようなら」で良い気がしています。感謝も謝罪も、どれだけ言っても足りない。あとは、別れの言葉しかない。そして、少年のことを、一生忘れないでいるだけだろう。手塚先生の「火の鳥」で、火の鳥がオグナに「あなたの歌は忘れないわ。さよなら」と言うシーンがあるんですが、これに尽きる。ひとりの少年が居た事、命を捨てて自分を助けてくれた事を胸に刻んで、少女はこの先どれだけつらい運命が待ち受けていても、決してくじけないだろう。
自己犠牲は嫌いである。何度も言った気がするが。しかし、本当に嫌いなのは、タオルを用意して自己犠牲の話を読み「あ~かわいそうっ!いい話聞いた~」と涙を流そうとする心情の方です。
自分の一番大事なものを投げ捨てて何かを救おうとする気持ちは、崇高であると思う。でもその心情に到達できなかったからと言って責められるものではないし、目指してはいけないとも思うし、意図的に目指すものではない気がする。時折、そういう、誰に褒められるためでも、感謝されるためでもなく、その道をふと選び取る人がいる、ということです。